御 挨 拶

熊本県地域子育て支援センター事業連絡協議会

       会 長 小 岱 紫 明

 

昨年、埼映され、大きな感動を呼び起こしました。戦争中に子どもたちを集団疎開させて子ど玉県川越市で開催された子ども子育て支援全国研究大会で、映画「あの日のオルガン」が上もたちの命を守った保母さんたちの物語です。

昭和19年(1944)に戦局が厳しくなり、東京は米軍の空襲にさらされる危機が迫ってきていました。当局は一カ所に子どもを集めておくことは危険極まりない行為であるとして、昭和19年4月に「幼稚園閉鎖令」を出し、公私立問わず幼稚園が閉鎖されました。同年8月には、小学校生徒の集団疎開(3年生から6年生)が実施されました。

一方、保育所は閉鎖どころか「戦時託児所」と名を変えて増加しています。閉鎖された幼稚園を借り、子どもたちの去った小学校の教室を使い、お寺や教会を借りたりしてその数を増やしています。東京都の調べによれば、公立167ヵ所(幼児数8600名)、私立及び無認可保育所600ヵ所(幼児数3万8千人)です。国家は戦力増強の立場から、幼児の親である国民は、職場を離れることが出来ないという立場から、とにもかくにも「戦時託児所」増設を要望推進していきました。昭和20年3月10日の東京大空襲(被災者百万人)によって、すべての保育施設が廃止休止に追い込まれるまで、この恐るべき状態に終止符が打たれることはありませんでした。東京都が就学前の子どもたちを対象に「疎開保育所設置要項」を定め、疎開保育所を開所したのは、昭和20年6月末で、敗戦のじつに2ヵ月前でした。

ところがこの東京都による集団疎開に先立つこと7ヵ月、昭和19年の11月末に幼児疎開を単独で決行してしまった保育所が2ヵ所ありました。埼玉県の農村の無人の荒れ寺で、11名の保母さんと子どもたち53名が、昭和20年の11月まで24時間保育をしています。食糧難の時代で大変な苦労をしながら子どもと寝食ともにし、戦禍から子どもたちの命をまもっています。今改めて思いますと、戦時中の厳しい管理下のもと、子どもたちの命を守るために、行政の判断を待つことなく単独で集団疎開を敢行された保母さんたちの勇気と行動力に敬意を表さざるをえません。

顧みますと、平成の30年間は戦争こそありませんでしたが、阪神淡路大震災、東日本大震災、福島第2原発事故、熊本震災、西日本集中豪雨など、災害の多い時代で今も大きな爪あとを残しています。被災地の保育園、支援センターでは、困難な状況のなかにおいても保育園、子育て支援センターを開設して、被災支援に当られた多くの方々がおられます。その果たした役割はあまり注目されていませんが、非常に大きなものがあります。

『保育者が非常時においても見捨てることなく変わらずに接してくれるということは、不安が高まっている子どものこころにとって強い味方になる』と、児童精神医学者マーガレット・マーラーは 『対象恒常性と』いう言葉を使って理論化しています。

地域子育て支援センターが地域の拠点として恒常性を保ち、地域に子育て支援センターがあるというだけで、育児中の保護者・子どもに安心感を与えられるような存在でありたいものです。