第3回 子育て支援センター九州セミナー
実績報告書

 

養老 孟司先生 基調講演(要旨)

子育てに当てはめて考えると、学校に通っていると例外なく、自然の事もそうだが、本来はっきりした答えなんかない。正解のない問題ばかりがそうだ。結婚相手を考えてもそうだ。学校で教わった事以外の事から、社会に出たら問われてくる。
子育ての問題も同じ。それぞれの状況に応じて、状況を見て対応しなければ。(都合が良かろうが悪かろうが)状況が存在すると認める。そこから始まらないといけない。
状況を認めず、原理原則のみを優先する「原理主義」と言われるが、何もそれは他国の話だけではなかったと思う。例えば、「鬼畜米英」のあの時代がそうだった。状況を認めないのはわが国でもそうだった。
意識へと偏重しすぎるのがよくない。

相手を見るためには、相手がいる事を認めなければならない。しかし、こうなければならない、と見てしまう。相手を認めるとはそういうことではない。しかし、どうすれば相手が自分の通りになるかを考えている。

「手入れ」という日本語がある。日本人が典型的にやってきた事。自然に対して手を入れ、維持していく、バランスをとっていく、という事。手つかずの自然とは、人間は関係ない、必要ないということ。例えば、女性の化粧がそうだ。手つかずがいい、というならば化粧しなければいいという事になる。

問題は、付き合わなければならないということ。
絶えず現状を見ながら、手入れをしなければならない。長くすると、大体いいところに落ち着いてくる。それが「バランス」。それが、手入れということ。
手入れをしないという事は屋久島の原生林という事になる。

いろんな事を見ながら、絶えず手を入れ「按配」を図らなければならない。子育ても同じ、絶えず手を入れ按配を考えなければならない。

江戸時代の記録を見ると、子ども達がよく笑う。子どもにとってとてもいい国として、どの外国人の記録にも載っている。伝統的な生き方があったのだ。
今一番迷惑しているのが子ども。人工的になってきたから。「ああすれば、こうなる」という子育て。それがそうだ。問題を解いて答えを出す、という方程式のやりかた、考え方だ。問題を解けば、正解がちゃんと出ると理解する人。極端にいえば、人生をそう考えている人がそうだ。答えなんか、正解なんかわからないのに。
そういう人が一番困るのは、途中で死ぬという事。自分は死なない、という思想で生きている人だ。

私の親は親より先に亡くなっている人が多い。10人中6人死んだ。親より先に。母方もそうだ。当時死ぬのは圧倒的に子どもだった。大正9年に乳児死亡率が初めて下がってきた。そして、女性の寿命も同時に延びてきた。
この年に東京市長が水道に塩素を入れた。水にあたって脱水状況で死ぬ子供がおおかったから。そして子どもが死ななくなったら、お母さんの寿命が延びた。

 

「ああすれば、こうなる」という考え。これはバランスが崩れてくるという事だ。

子どもの寿命が短いと、親の態度はガラッと変わる。
以前は子どもが死ぬのが当たり前だった。3つや4つで子どもに死なれると、親は子どもの時代はせめて子どもらしく全うさせたいと願う。今は違う、大人になるのが当たり前。
人にとって死とは「家族の死」でしか(実感は)ない。子どもは皆、いつ死ぬのかわからない。だから甘えさせていた。だからのびのび育てていた。

現在状況を考えたら、ラオスとかの子どもが幸せにしている。今、この今が幸せな方がいいんだ、という受け止めかた。

 

おとなしくて、言う事を聞くいい子どもですね、といって育てられた子どもが、今親になっている。
女の子は放っておいたら、どんどん強くなる。だから教育で躾けてきた。男は、男らしさを植付けないとどんどん弱くなってくるから教育してきた。

解剖していくと、理屈は通用しない。見たもの、そのままがそうだ。
実際のものを見ていく、という事が大事になってくる。その中で、足りないものを補っていくのが教育だと思っている。

生まれつき決まっているものを伸ばすということが個性なのか?その人独特のものを大いに伸ばすとは、どういう事か。
理解できない行動をとる人に、なぜそうするか?を問うてもわからない。理解できたとするならば、自分も理解不能の人になるのであろう。

自然に与えられているものは認めるしかない。それしかない。
人の言う「ネアカ」や「ネクラ」はあまり信用していない。躁鬱を知っているが、周りが痛みを感じるのが病気(躁鬱)と言える。
ネアカはネクラ、というのを知っているから。

自分をこんな人、というのは自分に枠をはめている、というのと同じ。それは信じない。自分だって自分の事はわからない。信じていない。人は常に変わる。自分の事は、わからない。

生きていたって、死んでしまう。
人が変わった、という事はある。東大をやめてから、以前の自分の行動理由、原理は忘れてしまった。わからなくなっていった。あれは前世だと思っている。

 

日本では職業的に同じ顔をしなければならなくなるようだ。社会的役割である。
江戸時代は士農工商という身分があったが、社会的には役割分担という側面もあった。家制度。勝手に変えてはいけない、という制度。
仕事は自分のためにあると思っているのが、今の若い人の考えのようだ。義務教育も同じ。国の義務と思っている。

仕事は世の中のためにある、と思っている。世の中のためにならない仕事とは何か。例えば、虫取りは私のためにある。それは自分のためにやっている。世のため人のためではない。

仕事とは世の中に必要な仕事であるからそれが無いと困る、というものが仕事。だからある程度時期になったら世の中にお返しする、というのが仕事。ある時期になったらお預かりしているものをお返しするのが、仕事。後は誰かが上手い事やってくれる、それが仕事。

世の中を成り立たせるためにあるのが、仕事。預かっているものだから仕事という。

預かっているものだから勝手に変えてはいけない。それが信用というものだ。
襲名というのがある。先代と同じ仕事が出来るようになった時に名前を襲名する、というもの。日本芸能や問屋がそうだ。これは相手に迷惑をかけずに同じ仕事をする、出来るということ。社会、取引先に迷惑をかけずに先代が築いた信用を引き継ぎ、先代と同じ仕事をしていくということ。

個人や個性はあえて伸ばさなくても、決まっている。それで本来は十分だ。自然界からすると、個性は困る。若い人ばかりがやっている仕事は、長く続かないと思っている。パソコンがそうだ。

自分に合った仕事を探す、というのはよもや話。自分がどれだけその仕事なら引き受けられるか、という話であり、仕事とはお前のためにあるものではないんだ、という事。世の中を成り立たせるためにあるのが、仕事だ。

本音と建前とは、基本的に自分が「意識して使う」というのが前提として無ければならない。無意識に使っているのは、建前でも何でもない。

仕事はやってみて初めてわかる、ものだ。

 

今は学ぶ姿勢が社会から消えていっている、という指摘がある。先生、という言葉があるが、それは「出遅れている」という事。
後から世間に入ってきた人ばかりだから、周りは先生ばかりではないか。今はひょっとしたら、自分が先頭を切って歩いていると思っている人ばかりではないだろうか。
学習とは、状況を見て、どうしたらいいんだろうか、と考えている時が学習というのだ。サッカーの競技中に突然ルールもわからないまま放り込まれた事を考えてみるといい。

学ぶ姿勢が問題なのだ。先に生まれたから威張るな、と思っているんではないだろうか。出遅れているんだから、状況を見て学ばなければならない。

この世にいて当たり前だと思っている。出遅れた、と思っていない。

「小皇帝」とは、学ばないという姿勢であり生き方なんだ。

自分がなにも知らない、という事を知る。ということ。

新入社員が、「周りの人が自分を理解してくれているかどうか不安でしようがない」、と言ってきたそうだ。ということは、小さい時から自分を理解してくれていないという事が、今までなかったという事だ。自分の親だって、自分を理解しない事は当たり前だ。

だから、説明しなければならない。相手から理解される事は、ない。ということ。
大事なことはそれに気が付いているか、ということ。

 

都会とは、意識の世界。
文明社会では、女性の立場が弱くなる。雑草とは、こんなものは私は植えていない、ということ。全て自分の思い通りの世界を作り出そうとする世界。だから、そういう世界では、子どもはかわいそうでしようがない。だから、少子化になる。

じゃあどうすればいいか。どうしようもない。

今はやってみる前に、「駄目だ」という時代。
やってみなければわからないでしょ、といっても、「そんな無責任な」と言ってくる。それが責任だと思っている。
この世界を一歩も出てはいけないんだ、という意識がはびこっている。だから、不景気になる。
親も、危ないでしょ、という。
頭で成り立つ事だけがすべてと思っている。

 

学習する態度を教える。
自分は未熟者いう意識を身につける。
自分が変わっていかない知識は知識ではない。

後は自分で考えてください。

                (以上文責、熊本子育てネット運営委員 橘 孝昭)

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